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8月7日
19年前、新潟三区で、田中角栄氏と票を競った、新潟県南魚沼郡六日町の、由緒ある旅館にて夏休み。39年前まで、この時期、1週間ほど、当てもなく出かけて、海をみかければ泳いでいた。二度、潮の流れを心得ぬまま、溺れかけた。以来、ほゞ外国へ出かけたのを別に、大体、家に引きこもり、他行といったって「旅」じゃなく「移動」。このたび、少し休もうとの発心。夕刻、宿に着き、温泉にも入らず、贅を尽した食いものに箸つけず、持ち込んだ「昭和天皇」関係の本を読み、折角、敷いてくれた布団をよそに、家にいる時同様、畳にゴロ寝。案に相違は、六日町も東京と変らず暑い。なんとなく、気が向けば散策のつもりだったのだが。


8日
朝飯は食った。温泉はまだ。小説を執筆に来たかと、心きいたお上、まったくおかまい下さらぬ。下さらなくてもいいが、どうも夏休みの感じがしない、貧乏性が骨にからんだのか。「昭和――」の関係の書物、読むほどに気が滅入る。何のことはない、備えつけの冷蔵庫のビール。行きつく先きは十分知りつくしながら、まずは、下戸の如く、ほんの少しづつ。20分でとりあえず中瓶1本空、後はどうなときゃあなろたい。気がつくと、電話をかけまくって上機嫌。


9日
不明。体は宿の一室にある、精神不明。時刻にしばられたくないと、時計を持って来なかった。117で、「午後9時32分30秒をお知らせします」「午前1時5分をお知らせします」。「時刻」という小説を考える。すぐ、似たような散文詩のあることに気づき、すると、その主人公を気取って、聞きつゞけ、聞くうち、この問い合わせの料金、近頃値上がりしたことを思い、止める。(あとで聞いたら値上がりは番号案内のほうだった)晩飯手つかずのまま、とても食いものにみえない。


10日
土曜日、新聞連載の締切、と判っていて飲みつゞけ、原稿用紙はない。宿の便箋に、ボールペンで横筋をひき、枡目をつくり、書き出すが、字が字になっていない。オトすことにする。さすがに気持が冷える。昼、宿屋の前のそば屋で、名物とかの手打ちを半人前食う。暑い、田圃の中の一軒家の宿屋、舗装された道に影一つなく、行きかう人の姿またなし。夕刻、フラフラと新幹線に乗り、新潟市、古い友人を訪れる。彼も断酒のところ、遠方より来たるわれにつき合って飲む。応接間で睡る。


11日
友人に、懇々と不心得をさとされる。「『文壇』は、所詮、楽屋内の話だ。ちゃんと書け」御内室手作りの粥をすゝり、静かな彼の住いの一室でじっとしている。「今まで、ちょっといい難かったが、サインしろ」わが著書50数冊運びこんで来る、彼が墨をすり、われ署名。当方のまったく覚えのない短編集がある。持つべきは友。夕刻、帰京。とりちらかった書斎で、いちおうシラフ、明日から頑張ろうと思う。



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